ブラジルサッカーの歴史

投稿者: | 2022年10月23日
 ブラジルサッカーの歴史は、紆余曲折を経て現在の形にたどり着きました。今回は、その紆余曲折を紹介していきたいと思います。

タッサ・ブラジル (1959 – 1968)州代表による選手権

 広大な国土をもつブラジルでは、地域間の移動や経済的な障害だけでなく、サッカーが大都市を中心に発展したことによるクラブ間や州連盟間の敵対関係、利害関係などの問題もあり、クラブチームによる全国レベルでの大会が長らく実施されてきませんでした。

 1959年になり、ブラジルスポーツ連盟(CBD、ブラジルサッカー連盟(CBF)の前身)の主催により、何かと問題を抱えていたそれまでの州選抜代表による大会を改め、主要な州選手権の優勝クラブチームによる全国大会としてタッサ・ブラジル(Taça Brasil)が開催されました。
(従前の大会は選抜選手による都道府県対抗駅伝。タッサ・ブラジルは各都道府県予選の優勝校が参加する全国高等学校サッカー選手権大会のイメージです。)

 ブラジル史上初めて、国内クラブチームチャンピオン決定戦大会が行われたのです。

 タッサ・ブラジルの大会形式は、1959-1966年はノックアウト方式、1967年および1968年はグループ予選上位チームとシード権を持つチームによるノックアウト方式が採用されました。

タッサ・プラッタ (1967 – 1972)上位クラブによる全国選手権

 1967年には交通機関も発展し、より広範囲で高頻度に試合を開催することが可能になっていました。すでに1954年からサンパウロ州連盟主催で施行されていたサンパウロ州とリオデジャネイロ(市)のクラブチームによる大会に、この年からリオグランデドスル州、ミナスジェライス州、パラナ州のクラブチームが参加。4州および1市からの計15チームによって、2つにグループ分けされた2回戦総当たり予選リーグ戦、予選リーグ上位2チームによる2回戦総当たりの決勝リーグ戦という形式で大会が行われました。

 この大会は、興行面で大成功をおさめ、翌年1968年にはCBDが主催者となり、タッサ・プラッタ(Taça Prata)と改称し、さらに2州のクラブチームを加えた6州および1市からの計17チームによって前年と同様の大会形式で開催されました。

 これにより、1968年をもって、各州選手権の優勝クラブチームによって競われたタッサ・ブラジルはその役目を終えることとなります。(タッサ・ブラジルは全国高等学校サッカー選手権大会のイメージ。タッサ・プラッタは地域性を考慮せず、全国で上位の実力をもつチーム同士による大会です。)

 なお、ブラジルサッカー連盟(CBF)は、1959-1968年のタッサ・ブラジル優勝チーム、1967-1970年のタッサ・プラッタ優勝チームをクラブ全国選手権の優勝クラブとして認定しています。よって、2大会が重複開催された1967年と1968年には、公式に全国選手権優勝クラブが2クラブ存在することになります。

 その後、タッサ・プラッタは1970年まで17チームで開催。1971年にカンペオナート・ナシオナウ・デ・クルービズ(Campeonato Nacional de Clubes)と改称され、20チームによって全国選手権として争われました。

全国選手権の肥大化 連盟と上位クラブの対立 (1973 – 1987)

 1973-1986年の期間、全国選手権は、基本的には前年の各州選手権の成績をもとに各州への割り当て数に応じて参加クラブが決定されていましたが、州選手権の結果に関わらない「招待」枠も設定されていました。

 ブラジルサッカーは大都市を中心に普及していったため都市や州の間での実力格差が大きかったのですが、この参加クラブ決定方式では各州から少なくとも1チームは全国選手権に参加することができていました。

 しかし、国内のサッカー普及によるクラブチームの増加や、招待枠の増加に伴い、参加クラブ数が1973年の40クラブから1979年には94クラブ(1986年実質2部制80クラブ)にまで達していました。また、いびつな形をしたノックアウト方式で実施されたため、1979年には、94クラブで争われたにもかかわらず、トップ12の成績を残したものの僅か3試合しか消化しないクラブなども現れました。

 ブラジルスポーツ連盟(CBD)は全国選手権の肥大化を主因とした財政難に陥り、その他の様々な問題も重なり、1979年に解散。そのサッカー部門が新たにブラジルサッカー連盟(CBF)として設立されました。しかし、CBFにも以前同様の問題が引き継がれ、ついには、1987年選手権の参加資格を、前年選手権順位の上位クラブに制限して参加クラブ数を削減し、併せてそれまでCBFが負担していた移動等の費用を参加クラブが自己負担する内容を提案しました。かねてからCBFに不満を持っていた主要13クラブは独自団体、クルービ・ドス・トレゼ(C13)を設立しました。

 1987年は、その運営、大会形式等について、CBFとC13の両陣営が激しく対立しましたが、それぞれがリーグ戦を行い、両リーグ上位2チーム計4チームによる決勝トーナメントを実施することで開催に合意しました。CBF主催リーグは前年の80チームから16チームに参加チームが削減して開催。また、C13主催リーグは、新たに3チームが参加し、16チームによるリーグ戦として開催されました。しかし、合意に反してC13側が拒否したため、決勝トーナメントは開催されずに終わりました。

 CBFは、決勝トーナメントでのC13代表2チームを不戦敗とし、CBFリーグ優勝チームのエスポルチを1987年全国選手権優勝チームとして公式に認定しています。しかし、C13創設クラブは当時のCBFランキング(国内全クラブを対象に直近5年の公式戦の成績に基づきポイント化したランキング)の上位13クラブであったため、一般にはC13リーグ優勝チームのフラメンゴも1987年全国選手権優勝チームとして扱われています。

コパ・ド・ブラジルの創設 (1989)

 1987年の選手権参加クラブ数の削減により、全国選手権に1クラブも参加できない州がでてきました。全国選手権参加クラブを擁しない州連盟の各クラブは、制度的に、全国レベルの大会出場機会が失われると同時に強豪クラブとの対戦機会も失うこととなり、強化面や興業面でクラブの発展が望めない状況に陥りました。さらには、ブラジルクラブを代表するコパ・リベルタドーレスへの出場の道も理論上閉ざされることになりました。

 これらの問題を解消するため、ヨーロッパ各国で開催されているカップ戦をモデルとしたノックアウト方式による全国大会、コパ・ド・ブラジル(Copa do Brasil)が創設されました。コパ・ド・ブラジルは、各州選手権の上位チームが参加し、大会優勝チームにはコパ・リベルタドーレスの出場が付与されました。

 第1回コパ・ド・ブラジルは、1989年、当時の21州及び連邦直轄区の計22連盟を代表する32クラブで争われました。参加クラブ数は1995年に36、1996年に40、その後も拡大を続け、2000年に69に達っしました。2001-2012年は64クラブで開催されましたが、2013年には87に再拡大し、2022年は92クラブで開催されました。

 創設以来、コパ・リベルタドーレス出場クラブは、日程の面からコパ・ド・ブラジルの出場権を持ちませんでしたが、2015年以降はベスト16からの出場資格が付与されています。

大会形式の試行錯誤から現在の体系へ (1988 – 現在)

 1988年以降は、C13は加入クラブの利権団体として活動しました。例外的に、2000年に裁判所によってCBFによる興行が停止されたため、急遽C13により開催された事例はありましたが、リーグ戦の分裂開催は再発していません。また、参加クラブ数の増減や大会形式は試行錯誤が繰り返されたものの、上位下位リーグ間の昇降格制度の導入、3、4部リーグ(Série C、D)が発足するなど、現在の体系に近づいていきました。

 2006年以降は2023年に至るまで、全国選手権1部リーグ(Série A)は20クラブにより、ホーム&アウェイ方式による2回戦総当たりのリーグ戦で開催されています。
※ 全国選手権 歴代優勝クラブ一覧
※ コパ・ド・ブラジル 歴代優勝クラブ一覧

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